| 厳しい自然風土と、いわゆる孤島苦とたたかいながら、それを克服して「明日に生きる喜び」を行事にしたことや、先祖祭拝への祈願祭りなど多種多様にあるが主な年中行事は次のとおり。
■旧正月(ショウガツ)
佐良浜ではサウガツ、佐和田、長浜ではサオガツ、伊良部、仲地、国仲ではソオガツとそれぞれ呼び名が違い南区の五ヵ宇は三日間、北区の二ヵ字は四日間行なう。
■ユーイ(十六日)
この行事は、先祖神を祭る行事で、北区では旧十四日から四日間行なうが、南区では、十六日を迎え焼香といって分家や嫁に行った子どもら全員が供え物を本家に持ち寄り午後三時ごろから焼香を始め、主婦は先祖の神の名をもれなく呼び迎えて参加者全員が手を合わせてから紙銭(ツカビー)を焼いて終る。
北区は十六日に墓参りしてご馳走を供えて先祖を供養する。また十七日をプートイと呼び、祭りをしめくくるが、むかしは、池間島に出かけ、本家や親せきの家をまわり焼香して夕方ごろ帰った。
■ピンガン
春と秋の二季に行なわれる行事で、佐良浜には無く、南区の五ヵ字だけが祖先の霊前にモチ、二ギリ、酒、お茶、紙銭などを供える。
■サ二ツ(旧三月三日)
佐良浜では、ミナンガハナ(三回打ち寄せてくる波の泡)で身体を清める。
これは、中国伝来の曲水の宴の習俗したものだといわれ、潮水そのもののもつ霊力を認める行事である。この日は、お米(昔は麦や粟)にヨモギの葉をまぜて炊き、二ギリをつくり、海からの獲物を待って、酒さかなともに先祖に供える。
南区では、二ギリとクミズ(クダン草で焼いた魚を混ぜ酢味噌をつくる)を神に供えてから食ぺる。
当日部落民のほとんどは潮干狩に出かける。南区では、この浜おりをチビコロズアラズ(尻のアカを洗う)という。サ二ツの由来によると、
昔、ある家の娘のところに毎夜美しい青年が現われた。娘やその家族の者は、この美青年が、何処からやって来て何処へ去って行くのか名前さえもわからなかった。不審に思った家族の者は、ある日、この青年の後をつけてみると何んと洞穴の中に住むアカマターと呼ばれる大蛇の化身であった。
家族は驚き、それでも様子をうかがっていると、青年は洞穴にいる仲間の者に「娘の胎内にはすでに自分の種が入っている」との自慢話が聞こえてきたので二度ぴっくりして引きかえそうとすると、こんどは、「人間には知恵がある。三月三日に浜におりて潮水で身体を洗い浜で二、三回飛びおりすると胎内の宿りものは全部おりてしまう」とほかの者が青年に話していた。娘はその声のとおり三月三日に浜に行き潮水で体を清め、二、三回飛びおりするとアカマターの子が胎内から出て行ったという。
■ハーリー(旧五月四日)
この日は、午前八時ごろから池間添の浜と前里添の浜で、分会対抗のくり舟漕ぎ競争と小中学校生徒の水泳大会が行なわれる。部落民あげて競争見物に集まるので浜は多くの人でにぎわいをみせる。
また年寄りたちは、池間、前里の二手にわかれて集まり、各船から贈られた酒さかなや菓子、金などで海神祭を行ない船の競争を見物する。タ方は、大主神社前で角カ大会が行なわれる。
佐良浜のハーリーは何時頃からはじめられたかは、さだかでないが、明治二十年頃、当時の宮古の海岸を仮の泊屋として出稼ぎに来ていた糸満の漁夫達によって伝えられたといわれている。
ある年、糸満の漁夫たちが五月四日までに糸満に帰ることができず、そのため佐良浜でハーリーを行なったのが始まりだとされている。その後、毎年五月四日に海神祭を催し、引き続きはりゅう舟競争を行なう習わしとなった。ハーリーの当日は、すべての漁船は漁を休み、夜明け前から大漁旗をなびかせて航海安全と大漁祈願をする。なかには摸擬カツオ釣りを行なう船などがあって本番さながらの情景をみせる。
■ナンカヅツ(旧七月七日)
南区は、墓の掃除をしたあと線香たきお盆への案内する。北区は、祖先の霊に水を供える。この日は、両区とも洗骨する日でもある。
お盆(ストガツ)、佐良浜は、本来的にお盆はしないが、近ごろから盆のナカビの旧七月十四日にご馳走を供えて盆を行なう家庭が増えつつある。
南の五カ宇は、十三日から十五日までの三日間、仏だんに果物、アダン、キビその他の供養をする習わしで正月と並び年中行事の最も大きなものの一つとされ、親類縁者が集まる。また日頃疎遠している人たちも参加して祭りを行なう。
■十五夜(旧八月十五日)
南区では、好きな者同志か近隣、縁者同志で組をつくり、朝からムトに集まって、酒、ご馳走の準備や会場の整理などを行ない午後三時頃から酒宴に移リ盛んにうたい踊る。
同志が集まる家のことを十五夜ムトといい、ムトは毎年の番で移動することになっている。両区とも十五夜にはフキヤギ(もち)を作る。
昔は高梁と小豆でつくったようだが現在は米にかわり、量も神に供えるだけの少量である。
北区の佐良浜では、昔、網引きも行なわれていたようだが現在は行なわれず、ただ、フキヤギだけをつくり、酒とともに神に供える程度である。
■ミャークヅツ
ミヤークヅツは毎年旧九月のキノエウマの日から四日間にわたって行なわれる。
ミヤークヅツに奉加する男をウヤ(親)と呼び、池間村は、四七才から、前里村らは五十才から参加する。
同じ部落の祭事でありながらどうして参加者の年令がこう違ったであろう。
その原因は、はっきりしていない。ウヤたちは,年令によって呼び方が違い、七十才以上をウイビトウヤといい、六十才以上七十才位までをナカウヤ、四七才〜六十才までをバカウヤといっている。ウヤ達は、決して戸籍名とか官職名は呼ばず必ず屋号にウヤをつけて呼ぶ。そして、座る順位も決まっている。
また、祭事の期間中は、けんか口論をしない、不礼な行為をしない、人の悪口はいわない、金銭・物品の不正をしない、特にミlウヤ(新しく祭事に参加する人)達は、サシミや酒、菓子などは、自分から絶対に食べたり飲んだりしないことなどが禁制され、それを破ったウヤは不幸にあうといわれている。
四日間にわたって行なわれるこの祭事は、伊良部町役場佐良浜支所前広場で池間、前里むらの両方に分かれて盛大なクイチャー(踊り)が催されるが、他部落からも観客がドット押し寄せてにぎわいをみせ、部落全体が祭り一色にぬりつぶされる。
その由来によると、昔、池間島に仲の良い夫婦がいて玉のような男の子をうんだ。
ある年、感帽が流行し、元気で遊んでいた男の子が突然死んでしまった。夫婦は、なげき悲しみ、毎日、墓にいき、子供の生きがえることを念じながら泣きつづけた。
夫婦は、何日か立って墓をあけ、棺桶をのぞきこんでみると、可愛い子供がみるかげもなく変り果てていた。夫婦は、これが最愛の者の死後の姿なのだろうかと泣き叫んだ。法要をすませて何ヵ月かたったある日夫婦は、人間は、死んでしまえばついには白骨となり、土と化していくのか、そうであればこの世に生きている以上、つらくとも苦しくとも年に一度は楽しく踊りたのしもうと、踊ったのがミヤークヅツのはじまりといわれている。
■トンデ、サウガツ(冬至)
小正月の意で、肉などを料理して神に供え、ご馳走して祝う。
この日の天気の如何によって旧正月の天気を占うものとされている。
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